スキーにはまっています。


by 幸田 晋

天ケ城 桜 0003

天ケ城 

天ケ城と高岡の歴史

 
天ケ城は高岡の歴史そのものです。

看板には次のように紹介されています。

『慶長5年(1600年)第17代島津義弘は、

関ヶ原の合戦に敗れ、

日向細島を経て帰国途中、
八代(現国富町)に宿泊しました。

「関ヶ原天下分け目の合戦」と
全国が見守ったこの合戦で、

徳川家康の勝利が全国に知れ渡ると、

島津氏と長年戦ってきた伊東家の重臣、清武城主、稲津掃部介は、

「島津氏を滅ぼして伊東氏の旧領を取り戻すのは、
この時期以外にない。」と考えます。

稲津は、即座に兵を率いて、宮崎を平定北進し、
佐土原城下に迫り、
その一部は、
義弘が宿泊している八代に向かって進軍しました。

 それに対して、
島津領内の近傍の領主達は、
取るものも取りあえず、八代へ兵を進め、
ようやくこの島津の兵をくい止めると、

義弘は、兵数十名を引き連れて八代を脱出し、
かろうじて鹿児島にたどり着くことが出来ました。

 義弘はこの事件を経験して、

国境警備の必要性を痛感し、

伊東氏に備えるため、

久津良名(現高岡中央部)の一部を城地に取り立て、

城を「天ケ城」と命名し、

島津氏と関係の深かった地域から
武士多数を強制移住させました。

そして、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し、

「高岡」を前線の要としました。

これが、高岡郷の創設とされています。



 その後、
元和元年(1615年)に
一国一城令が布かれると、

天ケ城は廃城となり、
城にいた武士達は、
全員城を引き払い、

麓(現高岡市街地)に下り住みました。


 
天ケ城は、

山の自然の地形を上手に利用した山城であったと言われています。』

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by kuroki_kazuya | 2012-04-06 05:03 | 写真 | Comments(0)