スキーにはまっています。


by 幸田 晋

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)

本日、6月15日は、
東京大学学生の樺 美智子さん、が、
60年「安保闘争」の国会デモで亡くなった命日です。
54年の歳月が経ちます。


ーーーーーーーーーーーーーーー

樺 美智子
(かんば みちこ、
1937年11月8日 - 1960年6月15日)は、
学生運動家。
安保闘争で死亡した
東京大学の女子学生である。


東京に生まれた。2人の兄がいる。
中学から父の神戸大学赴任にともない兵庫県の芦屋に移る。

芦屋市立山手中学校、兵庫県立神戸高等学校を卒業後、
一浪して1957年に東京大学文科二類に入学(同級生には歴史学者の長崎暢子などがいる)。

1957年11月の誕生日に日本共産党に入党した。
その後共産主義者同盟(ブント)のメンバーとして1960年の安保闘争に参加する。
76名が検挙された1960年1月26日の
全学連羽田空港占拠事件の時に検挙され拘置所に入った事があるが
この時は不起訴処分となっている。

1960年6月15日のデモで全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入した際、
警官隊と衝突して死亡した。22歳没。

死亡当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。

警察病院の検死では死因は胸部圧迫及び頭部内出血となっている。
これについて警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。
学生側の死亡者を出したことで警察は重点的にマスコミから批判される事となった。

6月15日の事件はラジオでも実況中継され、
樺の死は多くの人に衝撃を与えることとなった。

樺美智子の学友であった木村愛二は、
2000年に開かれた60年安保を回顧する座談会の中で、
「樺美智子は、普段はデモに来なかったのに、あの日に限ってデモに来た」と、回想している。
(新宿ロフトプラスワンにて)

母・光子による
遺稿集『人しれず微笑まん』(1960年)と
書簡集『友へ―樺美智子の手紙』がある。


羽田空港の事件で検挙されるまで家族は学生運動に参加している事を知らなかった。

当時、全学連主流派と対立していた日本共産党は、
彼女の死に際して、
「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、
官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。

樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と述べ、
官憲とともに全学連側の行動も非難した。

また、
毛沢東は樺の死について、
「樺美智子は全世界にその名を知られる
日本の民族的英雄になった」と述べた。

by kuroki_kazuya | 2014-06-15 07:03 | 歴史