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by 幸田 晋

[10・10空襲]放置される民間人被害

[10・10空襲]
放置される民間人被害


沖縄タイムス 社説 2014年10月10日 05:30より一部

「敵が来襲すれば、断固、せん滅あるのみ」。
酒豪の長勇参謀長は、酒の勢いもあって怪気炎をあげた。

1944年10月9日夕。
那覇市・波上の沖縄ホテル大広間に、
第32軍司令部の兵団長や幕僚ら配下全軍の幹部と県庁首脳らが集まった。

10日から始まる司令部演習に参加するため、
宮古、石垣など各地から軍幹部が参集したのを機会に、
牛島満司令官が軍官民の代表を招き、宴会を開いたのである。

宴会の後、軍幹部は市内の料亭に場所を移し、夜ふけまで2次会で盛り上がった。

米軍による猛烈な空襲が始まったのは
酔いの残る10日早朝のことだ


米艦載機による空からの爆撃は、
午前6時40分の第1次空襲を皮切りに、
午後3時45分の第5次空襲まで波状的に続いた。
のべ1396機が出撃したという。


・・・(中略)


10・10空襲から、きょうで70年になるが、
あらためて重く響くのは、
日本の近現代史を研究する
加藤陽子・東大教授の次の言葉である。

「サイパン失陥により絶対国防圏が崩壊し
本土空襲が現実的なものとなった時点、

言い換えれば、日本の敗北が決定的になった
44年(昭和19年)7月の時点で、
戦争を終わらせなければなりませんでした」


太平洋戦争後半期に
戦争犠牲者が集中しているのはなぜか。

制海権、制空権を失い、補給路を断たれてもなお、
勝ち目のない戦争を引きずり続けた結果である。

民間の空襲被害者に対して政府は、
戦争の犠牲は国民が等しく受忍すべきだと主張し、訴えを退ける。

だとすれば、戦争に敗れ、
個人を守りきれなかった政府の
敗戦責任は誰がとるのか


軍人・軍属と
民間人との間の扱いの差は
あまりにも大きい

この状態をいつまでも放置していいものだろうか。

10・10空襲は70年を経た今もなお、後世に多くのことを問いかける。


・・・(後略)
by kuroki_kazuya | 2014-10-11 06:28 | 歴史