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by 幸田 晋

原発事故当時の病院 移送の難しい患者抱え「美談なんかじゃない」

原発事故当時の病院 

移送の難しい患者抱え

「美談なんかじゃない」


東京新聞 2017年1月9日 朝刊

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201701/CK2017010902000124.html

高野英男院長を初めて取材したのは、
福島特別支局在任時の二〇一三年十一月。
原発事故後、
避難せずに診療を続けた行為を
「美談なんかじゃない」と言ったのが忘れられない


 やむにやまれぬ判断だった。一一年三月十一日の震災当時、精神科と内科に約百人の入院患者がいた。寝たきりで、移送に耐えられそうにない高齢者もいた。

 病院は海岸に近い丘の上にある。震災の日、津波で停電、断水も起きた。その夜、がれきで埋まった真っ暗な道を夜勤の看護師四人が出勤した。

 広野町は十三日に全町避難を決めた。給食の作り手がいなくなると、入院患者の家族らが手伝った。隣町のスーパーの経営者は、店の裏口の鍵を渡してくれた。非常勤医師を派遣していた杏林大は、跡見裕学長が先頭に立って支援した。消防団、自衛隊、東北電力の社員…。多くの人が支えた。

◆死去の院長患者第一 3・11後、夜も病院に

 高野英男院長は東北大理学部に進学したが、在学中、人間への関心が強くなり、精神科医に転身した。若いとき、内科も学び、外科手術も経験した。「患者と長く接するために」一九八〇年、高野病院を開院。「地域の無名の臨床医としてやっていく」つもりだった。

 原発事故後もとどまるのは、いばらの道だった。地域は崩壊し、子どものいる職員も避難した。

 普段は仕事が終わると病院の敷地内にある自宅に戻っていたが、3・11後は夜も病院にいた。

 「ロビーにスタッフが集まった。昔話をしながら様子をみた。それほど不安が強い人はいなかった」

 双葉郡の北にある南相馬市で生まれた院長は、放射性物質はこの地域でよく吹く南風に乗り、病院への影響は小さいと考えた。町役場から借りた線量計で繰り返し放射線量を計測した。医学的、科学的にリスクを考えた。

 震災で病院を取り巻く環境は大きく変わったが、患者第一の院長の姿勢は揺るがなかった。

・・・(途中略)

 楽しみは仕事の後、自宅に戻って飲むビール。「ピッチ(PHS、簡易型携帯電話)は手の届く所に置く。風呂に入るときも、シャワーを浴びるときも。哀れだなあ、と思います」。「酔うことはない」とも言っていた。

 悲報を聞き、一月に入って病院を訪ねると、事務長室に遺影が飾られていた。缶ビールの六本パックを置いて合掌した。

 「病院を守ろうとたくさんの人が力を合わせています。もう、酔っても大丈夫ですよ」 (論説委員・井上能行)
by kuroki_kazuya | 2017-01-10 06:55 | 東電 出鱈目 資本 | Comments(0)