スキーにはまっています。


by 幸田 晋

わらいたい:笑顔の仙人、その後/上 草庵暮らし奪った原発 /福島

わらいたい:
笑顔の仙人、

その後/上 

草庵暮らし奪った原発
 /福島

毎日新聞
1月9日(月)10時52分配信より一部

「畑も家も草に埋もれちゃったよ。
これはイノシシが荒らした跡だね。
水は前と同じようにわいているし、
鳥の鳴き声もする。
自然は変わらないね。
ほら、柿もなってるよ。
もう食べられないけど」


 
昨年12月、
浪江町南津島から
二本松市の仮設住宅に
避難している川本年邦さん(82)
に連れられ、南津島の自宅に行った。

震災から9カ月、

人が住まなくなった家は
ススキやツタに覆われ、自然に返りつつあった。


福島第1原発から
22キロ。

原発事故で計画的避難区域に指定され、

自宅周辺の放射線量は
今も毎時10マイクロシーベルトを超える。

津島地区への立ち入りには
町が発行した通行許可証が必要で、
この日は約4カ月ぶりの帰宅だった。

    ☆  ☆
 放射能の一番高い地域となり、避難民となりました。仮設住宅では知人は1人だけ。さみしいので部屋に閉じこもりがちです。もうひとたびお会いしたいですね--。
 川本さんから私に手紙が届いたのは昨年9月。震災後、南津島の自宅を離れ、廃校の避難所などを転々としてきたことが便箋8枚につづられていた。


 川本さんは人里離れた山奥で、愛犬「志磨」と共に1人と1匹の生活を送ってきた。晴れた日は畑仕事、雨が降れば本を手に取る晴耕雨読の日々。自然と共に生き、廃屋を改修した住まいをついの住み家と決めていた。


 江戸っ子の大工だが、宮沢賢治や鴨長明にあこがれ、13年前、70歳を目前にして移住した。山中に畑を開き、ほぼ自給自足の生活。ガスや水道は無く、山からわき水を引き、煮炊きや暖房には薪(まき)を使う。


 08年春、川本さんと知り合った私はその生活に感銘を受け、連日通い詰めて「笑顔の仙人」という連載記事を書いた。その後も折に触れては自宅を訪ねてきたが、

震災後は行方が分からなくなった。手紙の住所を頼りにようやく再会することができた。

 川本さんが年賀状を書くため、家に置いてきた昔の手紙を取りに戻りたいと言ったので、私が車のハンドルを握って久しぶりの帰宅となった。


    ☆  ☆
 水田を作り、稲の栽培もしたが、イノシシにすべて踏み倒された。池を作りニジマスを放すと、秋に越冬のカモが食べてしまった。芋や大根、大豆など、うまくいった作物の栽培に力を入れた。移住して13年、農作業が初めてだった川本さんが工夫を重ねて開いた畑は避難後、たった9カ月で草に覆われ、山に消えつつあった。


 「ほら、地震でここだけ被害が出たんだ。木が悪くなってたんだろうね。築60年以上だけど、ほかはほとんど被害が無かったんだよ」。自宅の地震被害は天井が一部落ちただけ。地震直後は家を離れることになるとは思わなかったという。震災前から変わらないのは、居間の壁に立てかけられた江戸末期の禅僧・良寛の「炉辺一束の薪」の額だった。


 嚢(のう)中三升の米/炉辺一束の薪/誰か問わん迷悟の跡/何ぞ知らん名利の塵(ちり)/夜雨草庵(そうあん)の裡(うち)/雙脚(そうきゃく)等閑(とうかん)に伸ばす
 草庵で暮らし、少々の米と薪さえあれば十分で、迷いも悟りも自分には関係ないと歌ったものだ。


・・・・


(関雄輔が担当します)

1月9日朝刊
by kuroki_kazuya | 2012-01-11 04:56 | 核 原子力