「電力不足を補え!」火力発電奮闘記/夏目幸明(ジャーナリスト)
2012年 03月 29日
同じ、電力労働者として
長い、ですが、一部転載致します。
原発推進という、誤った、政策をとる
経営者もいる、電力です、が、
このような、奮闘する、電力労働者もいることを・・・
「電力不足を補え!」
火力発電奮闘記
/夏目幸明(ジャーナリスト)
PHP Biz Online 衆知(Voice)
3月28日(水)18時11分配信より一部
◆“ご老人”の再稼働◆
海辺の町・愛知県武豊町。
冬の青空の下に、
ボイラーにつながる
管や水を循環させる配管が複雑に接続された
5階建て程度の建物が鎮座していた。
遠目にも、赤サビが浮いているとわかる。
屋外の階段はところどころぐらつき、
床が抜けて落ちてしまいそうな恐怖にとらわれた。
無理もない。
武豊火力発電所の2号機(37.5万kW/重・原油)は、
1972年――39年前に運転を開始したものだ。
39年経った発電施設は、人間でいえばまさに“ご老人”(関係者)だという。
発電効率も低く、
中部電力は2009年10月以来運転を休止し、
何もなければそのまま解体する予定だった。
「運転休止以降は最低限の整備しかしてきませんでした。
お金のムダになってしまいますからね」
(武豊火力発電所長・永崎重文氏)
しかしこの「ご老人」が
中部地方の電力危機を救っている、
とお伝えしたら、何を感じるだろうか。
昨年5月6日、
当時の菅直人首相は
浜岡原発(静岡県御前崎市)の全原子炉の運転停止を要請。
中部電力は運転中だった
4号機(113.7万kW)、5号機(138万kW)の停止を決定した。
首相の要請の是非を問うのは本稿の目的ではない。
確実な事実がある。
原発停止により、中部電力は主要な「ベース電源」を失った。
結果的に発生した問題は2点に絞られる。
一つは、老朽化した火力発電所を復旧、再稼働する必要が生じたことだ。
これは中部電力に限らず、原発をもつ全国の電力会社の問題だ。
しかも、石油、LNG(液化天然ガス)の価格は上昇しており、
燃料を運ぶ船舶の使用代金も上がった。
電力各社がエネルギーを火力に移行した結果、
当然、発電にかかる費用は増える結果となった
(全国で年間約3兆円と推計される)。
2011年、日本は貿易赤字国へ転落、主要因はこの「3兆円」である。
第二の問題は、
予備となる発電施設がまったくないことだ。
永崎氏が続ける。
「通常、電力は10%くらい余裕をもって発電しています(供給予備率と呼ぶ)。
しかし、もうそんな余裕はない。
“ご老人”である武豊火力の2号機を動かしても、
予備率が安定供給の目標である8~10%を切ったこともあります」
2月3日、
九州電力の新大分火力発電所(大分県大分市)のトラブルで
計13台の発電機が一時停止。
東京、中部、北陸、関西、中国、四国の6電力会社から
計240万kWに及ぶ電力の緊急融通を受けた。
・・・・
しかし、なぜ電力は足りているのか。
そこに、まるで懐かしの名番組
『プロジェクトX』(NHK)のような物語があることは
意識の隅に置いておいて無駄ではないだろう。
◆計器類にヒトデがついていた◆
「電力会社は電力の安定供給を義務として負っています。
それを片時たりとも忘れたことはない。
福島第一原発の原子炉建屋が水素爆発を起こしたとき、
私は『ただごとでは済まない』と覚悟を決めました」
こう話すのは、
東北電力仙台火力発電所(宮城県宮城郡七ヶ浜町)、
新仙台火力発電所(宮城県仙台市)の所長を務める松崎裕之氏だ。
彼は「そのとき」を
宮城県仙台市の東北電力本店の19階で迎えた。
地震の災害に関する報告を受けたときは被害僅少と見積もったが、
そのあとの津波で状況は一変。
その後、仙台火力発電所の現場をみにいったときのことがいまも忘れられない。
「電気室を懐中電灯で照らしたら、
計器類に海藻が絡まり、
ヒトデがついていたんです」
仙台火力発電所の4号機(44.6kW万/LNG)は、
2010年7月に営業運転を開始した最新鋭の発電機である。
LNGを高温で燃焼させ、
熱量の約58%を電気に変えることができる。
60%台に乗った発電機はいまだ世界にないことから、
その効率のよさがわかろうというものだ。
なお、名前は4号機だが、
1~3号機は老朽化のせいで撤去済みであり、
施設内には一基しかない。
設計・施工を担当したのは、三菱重工。
震災の翌日、松崎氏はその三菱重工の担当者と衛星電話で話していた。
「その方は私にとって“戦友”のような存在です。
私が発注側、彼が受注側で、
一緒に火力発電設備を建設した間柄です。
その彼が『必要な支援は何でもする』といってくれた。
これは心強かった。
実際、衛星電話で話した翌日の3月13日、
ヘリで現場に来てくれました。
施設は泥にまみれ、ところどころ変形していて見る影もない。
聞けば、悔し涙を流したそうです」
震災前、東北電力では
全24台の火力発電設備のうち、
19台が運転中であったが、
震災の影響によって13台が停止。
日本海側の火力発電設備は早期に運転を再開していたが、
津波で壊滅的被害を受けた太平洋沿岸の
火力発電設備の復旧が急がれた。
松崎氏も、発電所の復旧にこそ、
東北の復旧がかかっていると考えた。
電気がなければ、復旧に必要な作業もすべてが滞ってしまう。
一刻も早く発電を再開したいと願う松崎氏は、
関係会社を集めて異例の相談をすることになった。
「通常、何らかの作業を発注すると、受注側はある程度日程にマージンをとったうえで『いつまでにできる』という回答をします。たとえば、必要な資材が手に入らないかもしれないし、悪天候が続けば、工事に支障が出るリスクもある。要するに、必要なマージンなのです。しかし『今回は非常事態だから、マージンをすべて吐き出してほしい』とお願いしました」
三菱重工は、この要請を快く引き受けた。ほかの施工業者も同じであった。
その際、松崎所長はある重大な決断を下した。
「もし工程表どおりに作業を終えられない場合、施工業者には通常、何らかの形で責任を取ってもらうことになっています。
発電所は、一度、
所轄の官庁に営業運転の許可をもらうと、
その日までに営業運転を始めなければ
許可が取り消されてしまうこともあったからです。
しかし、今回は工程表どおりに作業が進まなくても
責任は絶対に問わないと伝えました」
全責任は自分が取る覚悟の松崎氏は、
日程を詰めるため、施工業者の便宜を図ることに努めた。
「今回は、従来の慣例に縛られていてはいけないと考えました。
そこでたとえば、従来は国内製品を使用するのですが、
必要な部品が足りなければ外国製品でもいいとも話しました」
施工業者と調整を重ね、
日程のマージンをすべて吐き出した工程表をつくると、
なんとか2012年3月に復旧できそうな目途が立った。
松崎氏は、先の三菱重工の“戦友”と、
「ならば(震災から1年後の)3月11日に運転を再開しよう」
と一時話し合ったが、さらに日程を早めようとする。
◆目標は「早期復旧」一点◆
東北電力では
暖房を使う家庭が増えるため、
冬も電力需要が下がらないという事情があった。
むしろ寒波が来ると、夏のピーク時並みの電力を必要とする。
「可能であれば冬に間に合わせたい」
そう松崎氏は考えたのだ。
いちばんのネックは、
電源用高圧ケーブルの在庫確保であった。
発電所の電源用高圧ケーブルだけに、太さは約20cmもある。
もちろん、特注品で在庫は存在しない。
この部品が最短でも
2012年の3月にならないと手に入らないとされたのだ。
「そこでまず復旧にあたり、電源用高圧ケーブルの入手に関して、
納期を縮められないか、施工業者に相談しました。
答えは『できるかぎりやってみる』だったのですが、
結果、2011年中には手に入るという回答を得ました。
三菱グループのなかでも最優先の課題としてくれたのです。
よし、ならば、他に詰められるところはないかとさらに検討を始める……
復旧開始後もこうした検討を積み重ね、
最終的にはすべての作業を2012年初頭には終わらせよう、
という計画になったのです」
松崎氏はたとえ作業工程が狂っても
施工業者に責任は問わないと明言していたが、信じていた。
このお互いの信頼感、現場の一体感があれば、
それはどんな契約書を交わすよりも「堅い」ものだ、と。
現場でも、同じことを感じていた。
同じく津波の被害を受けた
東北電力の新仙台火力発電所の技術グループ課長・鈴木康吏氏が話す。
新仙台火力発電所では
津波で被災した1号機(35万kW/重油)の復旧に努めた。
なお、同所の2号機は老朽化のために昨年10月に廃止。
現在、総出力98万kWの3号系列の建設を急いでいる。
「われわれ発電所サイドの人間も、
関係会社、協力会社の方々なども、
震災直後は交通手段もないなかで、
徒歩で新仙台火力発電所に集まってきた。
当初は津波で損壊した発電所にショックを受けましたが、
施設からドロなどを出し終えると、
『復旧にかかるぞ!』とみんなが前を向きました。
じつは当初、復旧工程表には、
スタート日時と目標日時が決まっているだけで、
真ん中は白紙同然だったのです。
でも、松崎所長のトップダウンでみんながマージンを吐き出し、
いつまでに何をすればいいか明確になると、気分が明るくなった。
そしていっせいに作業が進み始めたんです」
鈴木氏も、異例の事態であることを把握していた。
「徹底的に時間と競争してやろう、と思っていました。
たとえば、平時なら取り換えるべき部品も、
『このケーブルは一部を切ればまだ使える』と判断したならば、そうしました」
目標は、「早期復旧」一点である。
安全基準を満たしていれば、従来の慣例にとらわれない、
と全員の意識統一ができていた。
2011年夏、東北電力管内では
水力発電所が新潟・福島豪雨によって甚大な被害を受けた。
千年に一度の大震災に大洪水。
天を恨みたくもなるだろう。
しかし現場の人間は危機を前に、泣き言もいわず、
ひたすら被災した発電所の復旧に努めていた。
◆福島第一原発から20数km◆
東京電力の広野火力発電所(福島県双葉郡広野町)でも、
同じようなことが起きていた。
1~5号機まである同所の合計出力は380万。
原油、石炭を燃料とし、
火力発電所のなかでは国内最大級の規模を誇る。
津波により甚大な被害を受けた様子を所長の押谷豊氏が語る。
「水が引いたあと、タービン建屋の周りを見渡すと瓦礫の山しか見当たらない。
復旧しようにも、どこから手をつけていいのかわからず、
所員たちも絶望の色を隠せませんでした」
発電グループマネージャーの青山亮一氏もいう。
「そのとき、言葉とはほんとうに失うものだと知りました。
復旧まで、最低でも1年はかかると思いました」
とくに同所の復旧を困難にしたのは、
事故が起きた福島第一原発から20数kmしか離れていないことである。
同所の煙突からは、
第一原発の煙突がハッキリと視認できるほどの距離なのだ。
だが東京電力は、
夏の電力需要のピークを迎える前に、
なんとか復旧を間に合わせたいと考えた。
東京電力の発電設備の合計認可出力約6500万kWのうち、
東北から関東にかけての太平洋沿岸にある
福島第一・第二原子力発電所、
広野火力発電所、常陸那珂火力発電所、鹿島火力発電所が
津波により被災し、約1800万kW分の発電機が停止。
合計380万kWの出力をもつ広野発電所が
復旧するかどうかは、
まさに2011年夏の東京の命運を決する事態であった。
本店からは「7月には復旧せよ」との厳命が届いた。
「しかし、施工業者であるメーカーさんと工程表をつくってみると、何度引き直しても期限を2カ月以上はみ出してしまうんです。状況が状況なだけに、夏に間に合わせるしかないことはわかっていました。しかし、私も最初は頭を抱えるしかなかったですね」
やむなく押谷氏は“鬼”になる。
できない理由はいわず、どうすればできるかを考えてくれ――。
そう関係会社や部下たちに伝えたのだ。
「これまで発電所では、2社以上のメーカーさんと、
同じ席でミーティングを実施することなどありませんでした。
しかし今回は時間がないため、そんなことはいっていられませんでした。
作業に関わるすべての情報を共有することで、時間の短縮をめざしたのです」
無理に無理を重ねた結果、
なんとか7月に復旧が完成する工程表をつくり上げ、
そのあとは人海戦術。
多いときは2800人もの人間が、24時間体制で作業にあたった。
メンバーは仮設の事務所に
ダンボールを敷いて仮眠をとる日が何日も続いた。
その様子をみて、あらためて自分たちの責任の大きさを語り合うこともあった。
「夏の電力ピーク時、関東に大停電を起こさないためには、
広野火力の早期復旧が不可欠である」
誰も知っていることに違いないと思いつつも、
そう語らずにはいられなかった。
一方で、作業員に不安を与えないように放射線量の情報開示にも努めた。
「幸いなことに広野火力周辺の空間線量は比較的低かったが、
毎日、計測した放射線量を公開していました」(押谷氏)
そして広野火力発電所は震災から4カ月で復旧を遂げた。
その後、押谷氏は
入社2年目の所員が話しかけてきた言葉が忘れられないという。
「彼は『かつてない事態を経験し、乗り越えた経験は自分の人生にとっても大きい』『技術を身につけ、思いを同じにする者が力を合わせれば、何事にも立ち向かえるという自信がついた』といってくれたのです」
◆東北を照らす火◆
仙台火力、新仙台火力発電所の松崎所長が、
今回の復旧劇でもっとも重要だったことをこう話す。
「いちばんは柔軟性ですよ」
日本人はマジメだ。
納期が定められるとなれば、絶対に守り通すべきものとなる。
だからこそ、日程のマージンも必要となる。
しかし、松崎氏のような責任者も、
鈴木氏のような現場の人間も従来の慣例にとらわれず、
「柔軟」に動いた結果、復旧までの時間を短縮できた。
昨年12月中旬、仙台火力発電は試運転の日を迎えた。
「点火!」の声とともに火炎が灯り、
20本すべての燃焼器に広がると、
液晶画面に「着火」と表示される。
「発電所全体に、無言の拍手が響き渡りました。
私は『東北を照らす火だ』と感じました」(松崎氏)
そして今年2月8日、営業運転再開。
その週末に東北地方に大寒波がやってきた。
しかし、供給予備率には余裕があった。
松崎氏ら東北電力の所員と関係会社の必死の復旧がもたらしたものだった。
今回取材した三電力管内のみならず、
たしかに2012年3月現在、全国で電力は「足りている」。
しかしわれわれはその「裏側」の事情についても、
思いを馳せるべきなのかもしれない。
長い、ですが、一部転載致します。
原発推進という、誤った、政策をとる
経営者もいる、電力です、が、
このような、奮闘する、電力労働者もいることを・・・
「電力不足を補え!」
火力発電奮闘記
/夏目幸明(ジャーナリスト)
PHP Biz Online 衆知(Voice)
3月28日(水)18時11分配信より一部
◆“ご老人”の再稼働◆
海辺の町・愛知県武豊町。
冬の青空の下に、
ボイラーにつながる
管や水を循環させる配管が複雑に接続された
5階建て程度の建物が鎮座していた。
遠目にも、赤サビが浮いているとわかる。
屋外の階段はところどころぐらつき、
床が抜けて落ちてしまいそうな恐怖にとらわれた。
無理もない。
武豊火力発電所の2号機(37.5万kW/重・原油)は、
1972年――39年前に運転を開始したものだ。
39年経った発電施設は、人間でいえばまさに“ご老人”(関係者)だという。
発電効率も低く、
中部電力は2009年10月以来運転を休止し、
何もなければそのまま解体する予定だった。
「運転休止以降は最低限の整備しかしてきませんでした。
お金のムダになってしまいますからね」
(武豊火力発電所長・永崎重文氏)
しかしこの「ご老人」が
中部地方の電力危機を救っている、
とお伝えしたら、何を感じるだろうか。
昨年5月6日、
当時の菅直人首相は
浜岡原発(静岡県御前崎市)の全原子炉の運転停止を要請。
中部電力は運転中だった
4号機(113.7万kW)、5号機(138万kW)の停止を決定した。
首相の要請の是非を問うのは本稿の目的ではない。
確実な事実がある。
原発停止により、中部電力は主要な「ベース電源」を失った。
結果的に発生した問題は2点に絞られる。
一つは、老朽化した火力発電所を復旧、再稼働する必要が生じたことだ。
これは中部電力に限らず、原発をもつ全国の電力会社の問題だ。
しかも、石油、LNG(液化天然ガス)の価格は上昇しており、
燃料を運ぶ船舶の使用代金も上がった。
電力各社がエネルギーを火力に移行した結果、
当然、発電にかかる費用は増える結果となった
(全国で年間約3兆円と推計される)。
2011年、日本は貿易赤字国へ転落、主要因はこの「3兆円」である。
第二の問題は、
予備となる発電施設がまったくないことだ。
永崎氏が続ける。
「通常、電力は10%くらい余裕をもって発電しています(供給予備率と呼ぶ)。
しかし、もうそんな余裕はない。
“ご老人”である武豊火力の2号機を動かしても、
予備率が安定供給の目標である8~10%を切ったこともあります」
2月3日、
九州電力の新大分火力発電所(大分県大分市)のトラブルで
計13台の発電機が一時停止。
東京、中部、北陸、関西、中国、四国の6電力会社から
計240万kWに及ぶ電力の緊急融通を受けた。
・・・・
しかし、なぜ電力は足りているのか。
そこに、まるで懐かしの名番組
『プロジェクトX』(NHK)のような物語があることは
意識の隅に置いておいて無駄ではないだろう。
◆計器類にヒトデがついていた◆
「電力会社は電力の安定供給を義務として負っています。
それを片時たりとも忘れたことはない。
福島第一原発の原子炉建屋が水素爆発を起こしたとき、
私は『ただごとでは済まない』と覚悟を決めました」
こう話すのは、
東北電力仙台火力発電所(宮城県宮城郡七ヶ浜町)、
新仙台火力発電所(宮城県仙台市)の所長を務める松崎裕之氏だ。
彼は「そのとき」を
宮城県仙台市の東北電力本店の19階で迎えた。
地震の災害に関する報告を受けたときは被害僅少と見積もったが、
そのあとの津波で状況は一変。
その後、仙台火力発電所の現場をみにいったときのことがいまも忘れられない。
「電気室を懐中電灯で照らしたら、
計器類に海藻が絡まり、
ヒトデがついていたんです」
仙台火力発電所の4号機(44.6kW万/LNG)は、
2010年7月に営業運転を開始した最新鋭の発電機である。
LNGを高温で燃焼させ、
熱量の約58%を電気に変えることができる。
60%台に乗った発電機はいまだ世界にないことから、
その効率のよさがわかろうというものだ。
なお、名前は4号機だが、
1~3号機は老朽化のせいで撤去済みであり、
施設内には一基しかない。
設計・施工を担当したのは、三菱重工。
震災の翌日、松崎氏はその三菱重工の担当者と衛星電話で話していた。
「その方は私にとって“戦友”のような存在です。
私が発注側、彼が受注側で、
一緒に火力発電設備を建設した間柄です。
その彼が『必要な支援は何でもする』といってくれた。
これは心強かった。
実際、衛星電話で話した翌日の3月13日、
ヘリで現場に来てくれました。
施設は泥にまみれ、ところどころ変形していて見る影もない。
聞けば、悔し涙を流したそうです」
震災前、東北電力では
全24台の火力発電設備のうち、
19台が運転中であったが、
震災の影響によって13台が停止。
日本海側の火力発電設備は早期に運転を再開していたが、
津波で壊滅的被害を受けた太平洋沿岸の
火力発電設備の復旧が急がれた。
松崎氏も、発電所の復旧にこそ、
東北の復旧がかかっていると考えた。
電気がなければ、復旧に必要な作業もすべてが滞ってしまう。
一刻も早く発電を再開したいと願う松崎氏は、
関係会社を集めて異例の相談をすることになった。
「通常、何らかの作業を発注すると、受注側はある程度日程にマージンをとったうえで『いつまでにできる』という回答をします。たとえば、必要な資材が手に入らないかもしれないし、悪天候が続けば、工事に支障が出るリスクもある。要するに、必要なマージンなのです。しかし『今回は非常事態だから、マージンをすべて吐き出してほしい』とお願いしました」
三菱重工は、この要請を快く引き受けた。ほかの施工業者も同じであった。
その際、松崎所長はある重大な決断を下した。
「もし工程表どおりに作業を終えられない場合、施工業者には通常、何らかの形で責任を取ってもらうことになっています。
発電所は、一度、
所轄の官庁に営業運転の許可をもらうと、
その日までに営業運転を始めなければ
許可が取り消されてしまうこともあったからです。
しかし、今回は工程表どおりに作業が進まなくても
責任は絶対に問わないと伝えました」
全責任は自分が取る覚悟の松崎氏は、
日程を詰めるため、施工業者の便宜を図ることに努めた。
「今回は、従来の慣例に縛られていてはいけないと考えました。
そこでたとえば、従来は国内製品を使用するのですが、
必要な部品が足りなければ外国製品でもいいとも話しました」
施工業者と調整を重ね、
日程のマージンをすべて吐き出した工程表をつくると、
なんとか2012年3月に復旧できそうな目途が立った。
松崎氏は、先の三菱重工の“戦友”と、
「ならば(震災から1年後の)3月11日に運転を再開しよう」
と一時話し合ったが、さらに日程を早めようとする。
◆目標は「早期復旧」一点◆
東北電力では
暖房を使う家庭が増えるため、
冬も電力需要が下がらないという事情があった。
むしろ寒波が来ると、夏のピーク時並みの電力を必要とする。
「可能であれば冬に間に合わせたい」
そう松崎氏は考えたのだ。
いちばんのネックは、
電源用高圧ケーブルの在庫確保であった。
発電所の電源用高圧ケーブルだけに、太さは約20cmもある。
もちろん、特注品で在庫は存在しない。
この部品が最短でも
2012年の3月にならないと手に入らないとされたのだ。
「そこでまず復旧にあたり、電源用高圧ケーブルの入手に関して、
納期を縮められないか、施工業者に相談しました。
答えは『できるかぎりやってみる』だったのですが、
結果、2011年中には手に入るという回答を得ました。
三菱グループのなかでも最優先の課題としてくれたのです。
よし、ならば、他に詰められるところはないかとさらに検討を始める……
復旧開始後もこうした検討を積み重ね、
最終的にはすべての作業を2012年初頭には終わらせよう、
という計画になったのです」
松崎氏はたとえ作業工程が狂っても
施工業者に責任は問わないと明言していたが、信じていた。
このお互いの信頼感、現場の一体感があれば、
それはどんな契約書を交わすよりも「堅い」ものだ、と。
現場でも、同じことを感じていた。
同じく津波の被害を受けた
東北電力の新仙台火力発電所の技術グループ課長・鈴木康吏氏が話す。
新仙台火力発電所では
津波で被災した1号機(35万kW/重油)の復旧に努めた。
なお、同所の2号機は老朽化のために昨年10月に廃止。
現在、総出力98万kWの3号系列の建設を急いでいる。
「われわれ発電所サイドの人間も、
関係会社、協力会社の方々なども、
震災直後は交通手段もないなかで、
徒歩で新仙台火力発電所に集まってきた。
当初は津波で損壊した発電所にショックを受けましたが、
施設からドロなどを出し終えると、
『復旧にかかるぞ!』とみんなが前を向きました。
じつは当初、復旧工程表には、
スタート日時と目標日時が決まっているだけで、
真ん中は白紙同然だったのです。
でも、松崎所長のトップダウンでみんながマージンを吐き出し、
いつまでに何をすればいいか明確になると、気分が明るくなった。
そしていっせいに作業が進み始めたんです」
鈴木氏も、異例の事態であることを把握していた。
「徹底的に時間と競争してやろう、と思っていました。
たとえば、平時なら取り換えるべき部品も、
『このケーブルは一部を切ればまだ使える』と判断したならば、そうしました」
目標は、「早期復旧」一点である。
安全基準を満たしていれば、従来の慣例にとらわれない、
と全員の意識統一ができていた。
2011年夏、東北電力管内では
水力発電所が新潟・福島豪雨によって甚大な被害を受けた。
千年に一度の大震災に大洪水。
天を恨みたくもなるだろう。
しかし現場の人間は危機を前に、泣き言もいわず、
ひたすら被災した発電所の復旧に努めていた。
◆福島第一原発から20数km◆
東京電力の広野火力発電所(福島県双葉郡広野町)でも、
同じようなことが起きていた。
1~5号機まである同所の合計出力は380万。
原油、石炭を燃料とし、
火力発電所のなかでは国内最大級の規模を誇る。
津波により甚大な被害を受けた様子を所長の押谷豊氏が語る。
「水が引いたあと、タービン建屋の周りを見渡すと瓦礫の山しか見当たらない。
復旧しようにも、どこから手をつけていいのかわからず、
所員たちも絶望の色を隠せませんでした」
発電グループマネージャーの青山亮一氏もいう。
「そのとき、言葉とはほんとうに失うものだと知りました。
復旧まで、最低でも1年はかかると思いました」
とくに同所の復旧を困難にしたのは、
事故が起きた福島第一原発から20数kmしか離れていないことである。
同所の煙突からは、
第一原発の煙突がハッキリと視認できるほどの距離なのだ。
だが東京電力は、
夏の電力需要のピークを迎える前に、
なんとか復旧を間に合わせたいと考えた。
東京電力の発電設備の合計認可出力約6500万kWのうち、
東北から関東にかけての太平洋沿岸にある
福島第一・第二原子力発電所、
広野火力発電所、常陸那珂火力発電所、鹿島火力発電所が
津波により被災し、約1800万kW分の発電機が停止。
合計380万kWの出力をもつ広野発電所が
復旧するかどうかは、
まさに2011年夏の東京の命運を決する事態であった。
本店からは「7月には復旧せよ」との厳命が届いた。
「しかし、施工業者であるメーカーさんと工程表をつくってみると、何度引き直しても期限を2カ月以上はみ出してしまうんです。状況が状況なだけに、夏に間に合わせるしかないことはわかっていました。しかし、私も最初は頭を抱えるしかなかったですね」
やむなく押谷氏は“鬼”になる。
できない理由はいわず、どうすればできるかを考えてくれ――。
そう関係会社や部下たちに伝えたのだ。
「これまで発電所では、2社以上のメーカーさんと、
同じ席でミーティングを実施することなどありませんでした。
しかし今回は時間がないため、そんなことはいっていられませんでした。
作業に関わるすべての情報を共有することで、時間の短縮をめざしたのです」
無理に無理を重ねた結果、
なんとか7月に復旧が完成する工程表をつくり上げ、
そのあとは人海戦術。
多いときは2800人もの人間が、24時間体制で作業にあたった。
メンバーは仮設の事務所に
ダンボールを敷いて仮眠をとる日が何日も続いた。
その様子をみて、あらためて自分たちの責任の大きさを語り合うこともあった。
「夏の電力ピーク時、関東に大停電を起こさないためには、
広野火力の早期復旧が不可欠である」
誰も知っていることに違いないと思いつつも、
そう語らずにはいられなかった。
一方で、作業員に不安を与えないように放射線量の情報開示にも努めた。
「幸いなことに広野火力周辺の空間線量は比較的低かったが、
毎日、計測した放射線量を公開していました」(押谷氏)
そして広野火力発電所は震災から4カ月で復旧を遂げた。
その後、押谷氏は
入社2年目の所員が話しかけてきた言葉が忘れられないという。
「彼は『かつてない事態を経験し、乗り越えた経験は自分の人生にとっても大きい』『技術を身につけ、思いを同じにする者が力を合わせれば、何事にも立ち向かえるという自信がついた』といってくれたのです」
◆東北を照らす火◆
仙台火力、新仙台火力発電所の松崎所長が、
今回の復旧劇でもっとも重要だったことをこう話す。
「いちばんは柔軟性ですよ」
日本人はマジメだ。
納期が定められるとなれば、絶対に守り通すべきものとなる。
だからこそ、日程のマージンも必要となる。
しかし、松崎氏のような責任者も、
鈴木氏のような現場の人間も従来の慣例にとらわれず、
「柔軟」に動いた結果、復旧までの時間を短縮できた。
昨年12月中旬、仙台火力発電は試運転の日を迎えた。
「点火!」の声とともに火炎が灯り、
20本すべての燃焼器に広がると、
液晶画面に「着火」と表示される。
「発電所全体に、無言の拍手が響き渡りました。
私は『東北を照らす火だ』と感じました」(松崎氏)
そして今年2月8日、営業運転再開。
その週末に東北地方に大寒波がやってきた。
しかし、供給予備率には余裕があった。
松崎氏ら東北電力の所員と関係会社の必死の復旧がもたらしたものだった。
今回取材した三電力管内のみならず、
たしかに2012年3月現在、全国で電力は「足りている」。
しかしわれわれはその「裏側」の事情についても、
思いを馳せるべきなのかもしれない。
by kuroki_kazuya
| 2012-03-29 04:53
| 九電労組