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by 幸田 晋

【チェルノブイリ原発事故から30年(2)】 「母乳が汚染していて子供にやれない」

【チェルノブイリ原発事故から30年(2)】

「母乳が汚染していて子供にやれない」


ニュースソクラ 12/21(水) 13:00配信より一部

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161221-00010000-socra-int

今も続く日本からの粉ミルク支援

 赤ん坊を抱いた母親が「母乳が汚染して子どもにやれない」と泣きながら訴えてきた。ボルシチのスープで育てているという赤ん坊は見るからに生気が無かった。

 チェルノブイリ救援・中部の代表2人が1990年8月に初めてチェルノブイリの被災地マーリンを訪問した時のことだ。

 帰国後この報告を聞き、早速「粉ミルクキャンペーン」を立ち上げ、寄付を募った。当時ウクライナ製のミルクは汚染が激しく使えなかった。集まった寄付金で国内の粉ミルク1トンをメーカーから直接購入し12月に飛行機便で送った。

 送ったミルクがモスクワ空港で紛失してしまい、アントニオ猪木議員の仲介で取り返すなど色々な困難があったが最終的には粉ミルクはほとんど現地に届けることができた。そして病院や学校・幼稚園などに配られた。粉ミルク支援は今も続けている。

 代表団の報告で、被災地では医薬品などの要望が多いのは勿論だが、子どもも大人も精神的な不安が大きく「心の支え」も必要ではないか、という。それを契機に「クリスマス・カード・キャンペーン」を広く会員に呼びかけ、手製のクリスマスカードを沢山送った。このキャンペーンは26年経った今も続けている。

 私たちが支援を始めたウクライナのジトーミル州では流産死産の他に未熟児が多数生まれた。ジトーミル州立小児病院では年間600人の未熟児を受け入れていたが、保育器は僅かに3台しかなかった。その事実を知り「いのちのゆりかごキャンペーン」を立ち上げて寄付をつのり保育器10台以上を送ることが出来た。事故から10年目の1996年4月にこの病院を訪問した際、案内されて見た保育器の中の子どもの事は今も忘れられない。

 病院に運ばれてきたばかりだという保育器の中の赤ちゃんは腹部が破裂し、内臓が飛び出たまま生まれたのだという。カメラを握る手が思わず震えた。後日聞いた話によると、この赤ちゃんの手術は成功し無事退院出来たという。うれしかった。

 その他、仮死状態で生まれる赤ちゃんのために、強い光を当てて蘇生させる装置や超音波診断装置なども送った。この病院では日本からの医療機器を中心に初めて小児用救命救急室(ICU)を作った。そうした努力の甲斐があって1998年に15.6%だった新生児死亡率が3年後には9%に低下した。

チェルノブイリ原発事故による被災者数は、
旧ソ連政府の発表では
ウクライナ、ロシア、ベラルーシ合わせて
30km以内の避難者が35万人、
汚染地域の住民は約450万人である


 原発の街プリピアチの住民(5万人)は事故翌日から3日間で強制避難させられたが、30km圏内の住民の多くは事故の事実を政府が隠蔽したため、放射能の飛び交う野外で子ども達がタンポポを採ったり、大人はメーデーの準備で野外活動し、外部・内部被曝をした。

その結果、大人にも子どもにも大きな被害が生じた。
小児甲状腺がんは
事故から2~3年後から増加しはじめ、
10年後のピーク時の発生率は
年間10万人当たり7人
(通常時の30倍)にもなった


福島でも今、同じように発生率の上昇を示すデータが出てきている。

・・・(後略)
by kuroki_kazuya | 2016-12-22 06:45 | 核 原子力 | Comments(0)