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by 幸田 晋

「災害に弱い」都会の弱点が露わになった大阪北部地震

「災害に弱い」都会の弱点が
露わになった大阪北部地震
  
警戒せよ!
生死を分ける地震の基礎知識
その280
       
島村英紀(地球物理学者)


たんぽぽ舎です。【TMM:No3547】
2019年1月9日(水)午後 08:23
地震と原発事故情報
より一部

┏┓ 
┗■1.海は人をつなぐ 母の如し
 |  -韓国船遭難救護の記録・絵本「風の吹いてきた村」の紹介-
 └──── 木戸恵子 (若狭の原発を考える会)

「風の吹いてきた村」の舞台となった集落は、福井県遠敷郡内外海(うち
とみ)村泊(とまり:現在の小浜市泊)です。
 内外海半島の小浜市泊は、下記のように原発を拒否した地区ですが、
住民は小浜湾を挟んで約5kmの目前に迫る大飯原発を見ながらの生活を強
いられています(大飯原発の立地・おおい町からは、山に隠れて、原発は見
えません)。

 泊地区に反原発のチラシを配りに行くと、お会いする方々は「政治が
悪い!」、「あんなもん動かして、どうするつもりや!福島をみたらわか
る」と、私たちに訴えられます。
 以下では、内外海半島での原発建設を拒否した運動を概説し、現在でも
反原発・脱原発がこの地域の民意であることを示す中日新聞の報道を紹介
(メールマガジンではこの部分は省略させていただきます)した後、絵本
「風の吹いてきた村」を紹介します。
 絵本からは、ヒューマニズム(人間愛)とインターナショナリズム(国際
主義)の原点を感じ取ることができます。(中略)

絵本「風の吹いてきた村」
  (文/大森知良、絵/上原徳治:発行人/大森知良:2014年10月発行)

◎ この絵本に書かれた韓国船遭難があった1900年頃は、日本が朝鮮半島を
侵略し、朝鮮人の名前を日本名に強制的に替える「創氏改名」や日本語の
強制、教育勅語による差別的な教育、田畑の略奪などを行い、朝鮮人を
搾取した時代でした。
 その時代に、寒風吹き荒(すさ)ぶ中、危険を顧みず、韓国船遭難者全員を
救出・保護した誇らしい歴史を、泊の人達は、今でも大切に語り継いでおら
れます。
 以下には、絵本のほぼ全文を紹介します。

◎ 1900年1月12日、北西の風が吹き荒れた翌日のことです。福井県遠敷郡
内外海村泊(現在の小浜市泊)の浜には多くの漂着物が流れついていました。
 村の若衆・長太夫が浜に出ると、海はまだうねりがあり波が打ち寄せてい
ました。沖を見ると船がいました。見たこともない船です。「これは日本の
船とはちがう。外国の船に違いない。一大事や!」長太夫は村の衆を呼びに
走りました。
 豊蔵、仲太夫、清蔵、兼松が来ました。「これはたいへんだ!えらい
ことや!」5人で手分けして村中を走り回り、人を集めました。区長の
孫右衛門と輿太夫の指揮で小舟を出すことになりました。冬の荒海を懸命に
櫓を漕いで沖の船に向かいます。
 船に近づくと、人たちが手をふって何やら叫んでいます。
 しかし何を言っているか言葉がわかりません。困り果てていると、頭と
思われる人が紙を出してきて何か書き始めました。それは漢字でした。
 韓国人「ここは、いったいどこですか?」
 村人「ここは日本国の北陸地方です。」村人「この船はどこから来まし
たか?」 韓国人「朝鮮です。」
 村人「船に病人や死人はいませんか?」 韓国人「いません。」
 筆談でおおよそのことは分かりました。乗船者は寒さと空腹でぐったりし
ている様子です。40名、いや50名、いやまだまだ船底にもいる様子です。
「とにかく、舟に乗せて浜にあげよう。」小舟に乗れるだけ乗せて浜にあ
げました。船がまだ足りません。「皆の衆、出せる船は全部出してくれ!」

 区長の指揮で船小屋にある船を出して沖に向かいました。そして、小舟に
乗せて次々に陸にあげました。村の浜には村中の人が集まりました。浜に
上陸した韓国船の乗船者は全部で93人もいました。助かった安どで泣き出
す者もいました。
 村人は、韓国人の身体を温め、村中の米を炊いて食べてもらいました。
次は93人の宿泊ですが、皆で手分けして泊め、子供達も総出で風呂を焚い
て、冷え切った体を温めてもらいました。生き返った喜びが村中にあふれ
たそうです。

◎ 翌日から村にある寺院・海照院に遭難救護の仮事務所が設けられまし
た。内外海(うちとみ)村役場と小浜警察署から役人や警察官が来て取り調
べが始まりました。
 筆談で分かったことは、船の名前は、「四仁伴載(サインバンゼ)」、
八百石積める木造船です。乗船者は、商人、運搬人、乗組員など93人。
仕事で来ていたウラジオストックを出港し、大韓国の明川にある沙浦に向
かっていたら、出港した日の夕方、急に嵐になり、激しい波風で木造船は
帆が折れ、船内に海水が入ってきました。転覆を避けるために、多くの積
み荷を投げ捨てました。真冬の中、わずかな乾米を分け合い、自分の尿を
飲んで14日間漂流し、死も覚悟していたという悲惨な話でした。

 韓国人の滞在は8日間続きました。言葉は通じませんが、応対の中でお互
いの心が通じ合うようになり、好奇の感情から親しみの感情へと変わってい
きました。
 最初の4日間は、韓国人に白米を1日1人1升5合食べてもらいました
が、5日目、官からの命令で、水難救護法に従って1日7合5勺に減らす
よう言われました。村人は、韓国人の空腹の様子を見て気の毒に思い、内緒
で芋や餅、大豆煮、韓国人の好きな生大根や蕪(かぶ)を村中皆で差し入れ
ました。韓国人はたいそう喜び、村人に手を合わせ、それを見ると村人は
憐れみを感じ、涙をこぼしたと言われています。

◎ 滞在8日後の1月19日、村の浜には、老若男女、子供に至るまで区民
全員が集まり、村長が送別の挨拶を以下のとおりしました。
 「大韓国吉州・明州にお住いの皆様は、海上で暴風に遭い、この地に漂流
してこられました。わが村民は、皆様方全員を救助できましたことを光栄に
おもいます。この地で8日間お世話をしましたが、不便な土地ゆえ、十分な
ことはできませんでした。今日、皆様方を帰国させることになりましたが、
別れるとなると胸がいっぱいになります。どうかご無事で、故郷へお帰りに
なりますよう心からお祈り申し上げます。」

 韓国人を代表して崔卿汝(チェキョンヨ)がお礼の気持ちを書いた書状を
渡したそうです。
 それには「夢にも思わずあなたの国へ着きました。飢えや寒さは耐え難
く、死の境をさまよっていましたが、村の皆様方の小舟に助けられて上陸す
ることができました。そして、きわめて深いおもてなしを受けました。ご飯
も腹一杯食べさせていただきました。この恩は山の如く海の如くでありま
す。私たちは本国に帰り、それぞれの故郷へ戻ります。いつまたお会いでき
るかわかりません。お別れするのはとてもつらく悲しいです。皆様方のお幸
せとご健康をお祈り申し上げます。この御恩を万年の世まで語り伝えていく
つもりです。」と書かれてありました。
 韓国人たちが眼に涙して別れを告げると、村人も涙を流し、その様子は
親子兄弟の別れのようだったと言われています。

救援により93人の韓国人全員が救助され、93人は敦賀から大阪港へ行き、
蒸気船「恐鴻丸」で釜山まで送られました。
 事件から100年後の2001年1月、日韓の有志によって救護の現場を望む海
岸に記念碑が建立されました。碑には「海は人をつなぐ母のごとし」と日本
語と韓国語で刻まれています。
   (2019.1.4「若狭の原発を考える会」配布のチラシより)



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┗■3.「災害に弱い」都会の弱点が露わになった大阪北部地震
 |  警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識 その280
 └──── 島村英紀(地球物理学者)

 6月に起きた大阪北部地震から半年がたった。
 現地ではいまも、ブルーシートに覆われた屋根が目立つ。地震からの復旧
が出来ない家が多いのだ。
 地震のマグニチュード(M)は6.1で内陸直下型地震としてはそれほど大きく
はなかったが、震度は6弱。震度階では上から2番目だ。

 この地震では、家が損壊したり、瓦が落ちるなど、多くの被害があった。
被災家屋は高槻市が約2万棟、茨木市が約1万6千棟もあった。
 しかし被災した家屋の99%もが「被災者生活再建支援法」の対象外になっ
てしまった。公的支援が少ない「一部損壊」だったせいだ。このため、高槻
市は最大5万円、茨木市は最大20万円の支援金制度を設けたが、自己負担も
大きくて躊躇する人も多い。

 また、公的補助は工事が完了しないと支給されないという制約もある。
とりあえずの金額を用意できない人たちにとっては閾(しきい)が高いので
ある。
 この大阪北部地震は災害に弱いという都会の弱点が露わになってしまった
地震だった。大阪北部地震は多くの問題をかかえたまま年を越す。

 大災害になった1995年の阪神淡路大震災(M7.3)は6400人以上の死者を
生んだが、その5年後に同じMで同じ内陸直下型地震として起きた2000年の
鳥取県西部地震では、死者はなく、怪我人だけにとどまった。

 東京や大阪などの都会には「木密地帯」といわれる古い木造住宅が密集
した地帯が多い。東京でいえば、東京東部に限らず、山手線のすぐ外側に
北部、西部、南部に広がっている。
 しかも、ここに住んでいる人たちは、行政が提供している耐震診断も耐震
補強も、自己負担ができないために出来ない人たちが多い。これらの家屋は
地震に限らず、各種の災害に弱い。
 一方、災害のほうは、増えていく傾向にある。
 たとえば2014年に起きて77人の人命を奪った広島市安佐南区の土砂災害が
ある。戦後、広島市が膨張して広がった地区で、60年以上も安全だった。
だが「いままでにない」豪雨で地滑りが起きてしまったのだ。

 じつは「いままでにない」豪雨には理由がある。それは地球の温暖化が
「気象の凶暴化」をもたらしているからだ。気象の凶暴化によって、いまま
でにない大雨が降ったり、いままで大災害がなかった日本にも竜巻の被害が
出たり、日本に上陸する台風がいままでよりも強くなったりする。2018年の
夏に起きた西日本豪雨による災害もそうだ。

 また世界的にも、雨が多いところはもっと雨が降り、雨が少なかったとこ
ろでは、もっと雨が少なくなる。たとえば米国の東部の年間雨量は2018年に
78都市で史上最大を記録した。
 1978年に起きた宮城県沖地震は大きな被害を生んだが、全壊した家1200戸
の99%までが戦後に開発された土地に建っていた。つまり住宅地が広がって
いって、これまで人が住めなかった土地が開発されているのである。

 (島村英紀さんのHP http://shima3.fc2web.com/
「島村英紀が書いた『夕刊フジ』のコラム」より12月28日の記事)

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by kuroki_kazuya | 2019-01-10 06:15 | 核 原子力 | Comments(0)